「廣海放談」 廣海貫一 デパート通信社 昭和36年 その4
香港に旅して 司葉子さんとともに P.148~
昭和三十年十一月十一日号~十二月十四日号
初めてのジェット機、香港開通記念と司葉子の話
ここに娘さんの名「緑」がでてくる。
その一
その二
その三
その四
その五
その六
御堂筋の銀杏 P.170~ 昭和三十五年四月十一日号
イチョウの観察の話
カマキリ カマキリと現代世相の考現学 P.174~
昭和三十五年三月三十日号~五月三十日号
自身の飼育経験などの話
1 カマキリの生態
2 コン虫学教授の誤説
3 ぼくのカマキリ飼育
4 カマキリの暴力
5 少年犯罪とカマキリ
6 葬送曲のあとで産卵
7 五月の暖かい日に
8 カマキリ坊やの成長
9 悲しみもなく喜びもなく
10 蟻とカマキリと熱帯魚
11 これがカマキリの生態だ
12 無造作な命のやりとり
13 殺し合いの本能生活
14 五匹の適者の運命
15 蛇の場合
16 カマキリと少年犯罪の考現学
スケーリング P.238~ 昭和三十四年九月十二日号
歯のクリーニングの話
常務と店長 P.242~ 昭和三十五年二月┼三日号
高島屋の人事の話
・・・渡辺新東京店長は、昭和五年京大卒業と同時に東京高島屋
に入店し・・・
・・・三越の北田専務、松坂屋の小林専務、高島屋の川勝常務等、
当寺の”百貨店の三羽烏”・・・
梅原竜三郎展を批評す P.264~
昭和三十五年五月十四日号~七月二十四日号
日本を嫌う奴 P.274~
昭和三十六年四月二十二日号~四月二十六日号
- いわゆる文化人 -
進駐軍との接し方などの話
あとがき P.277~
・・・僕は親が早く死んで・・・義兄に育てられたから・・・酒屋で働
いた”車力曳”の親父が・・・「車力曳一家三人は・・・。
・・・義兄が”店を出してやる”と云うのを断って、兄の家を出て支
那航路の”船乗り”になった。・・・
・・・”第一回国勢調査”があった。その時戸籍名の”石井定二
治”では嫌なので、新に”廣海貫一”の名で・・・僕はこの頃盛に”自
然主義”を称えていたので、この”自然主義”を廣い海を越えて一
貫すると云う意味で・・・この時が大正七年であった。 ・・・遂に昭
和二十八年十月十五日”廣海貫一”は戸籍名として・・・
以上でこの本の紹介は終わりです。
---メモ---
昭和36年=1961年
関連書
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