「日本の金魚」 松井佳一 その3
本文つづき
(10)オランダシシガシラ(和蘭獅子頭)
- 寛政9年(1797年)の長崎見聞録には獅子頭の金魚の図がある。
(11)ワトウナイ(和唐内、和藤内、ワリウ)
- 鮒尾のものは山形県地方のフタツオキンギョ、米国のコメットと同様である。
ワトウナイの名は日本、唐(支那)にない金魚の意とする説もあるが、文化7年(1810年)の稿本蔵六庵五柳軒秘書にすでに和唐内の名があり、又弘化4年(1848年)の書き入れ本には「和唐無、ワキンとランチュウとにて作る」と有り、又嘉永2年の稿本では「間魚(アイギョ)卵蟲にて背鰭あるを俗に和藤内と伝う」ともあるのを見出した。
(12)シュブンキン(朱文錦)
- 明治33年(1900年)に初代秋山吉五郎氏が作ったものに松原新之助氏が命名せられたものである。
(13)キャリコ
- 秋山吉五郎氏がサンシキデメキンとリュウキンを掛け合わせた一代雑種で、透明鱗のものに明治45年(1912年)にキャリコリュウキンと命名せられてから広まった。
キャリコとは更紗の英語である。
(14)ツガルニシキ(津軽錦、キンリン、金鱗、地金魚)
- はじめはヂキンギョと呼ばれていたが。昭和2年からこの名を用いるようになった。
秋山吉五郎氏がランチュウとオランダシシガシラとを交配して作って明治30年にシュウキン(秋錦)と命名せられたものと同じ型のものである。
明和年間(1764-1771年)に津軽藩士が京都から持参した金魚を改善したものと言われている。
これの肉瘤の発達したものにヒロニシキ(弘錦)がある。
2,金魚の進化と其の系統
- 大体、魚では背鰭、尾鰭、臀鰭は奇鰭といい一枚のものが多く、胸鰭、腹鰭は偶鰭といって二枚のものが普通であるが、金魚では尾鰭、臀鰭も偶鰭であるものが多いのが特徴である。
鮒から金魚が出来るかというと、恐れく出来まい。それは現在の鮒と金魚の出来た時代の鮒とは相当に変化していると思われる。
しかし、現在の金魚の各品種からは割合に容易に鮒と同じものを作ることは出来るのであって、私は多年これらの研究によってこれを実験的に証明することが出来た。
3,金魚飼育の沿革
- 渡来については文亀年間と元和年間の二つの説がある。
金魚の名がはじめて文献に表はれたのは寛永8年(1631年)刊の林道春の多支識編であるから元和元年より17年後である。元和渡来説には元和2年と5年の2説がある。
文亀2年が最初の渡来であると思う。
享保の初め頃から飼育も盛んになり、庶民の愛玩にも普及したらしい。寛延元年には立派な飼育書が刊行盛んによまれた。
4,浮世絵に表された金魚
5,金魚の古文献
以上でこの本の紹介は終わりですが、著者の名は佳一=ヨシイチです。
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コメント
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そうなんです。キャリコ=更紗だったのです。
これに行き着いた時はショックでした。熱帯魚ではサラサムーン、キャリコバルーンモーリーなど金魚の呼称を転用したのだと思います。
キャリコリュウキンの発表当時の絵をみると今日のサクラリュウキンのような姿であることがわかります。
投稿: 花やん | 2008年7月16日 (水) 11時19分
30年以上魚飼っていますが、キャリコ=更紗は本当にビックリしますね。
更紗と言うと紅白系と結び付いてしまいます。
最近はやりのサクラ***がキャリコですか。それなら更紗も頷けるような気がします。
モザイク透明鱗と透明鱗、ある時代でキャリコがモザイク透明鱗系に収束したのでしょう。
話変わりますが
装幀→装丁 感謝です。
投稿: イチ | 2008年7月16日 (水) 21時13分